真似は芸事の基本なり、という言葉があります。
これは本当だと思います。
でも、真似だけでは越えられない壁があるのも事実だと思います。
昔話を・・・
小学生時代
僕が小さな頃は、もちろんyoutubeなんてありませんでした。
それどころか、僕の田舎(和歌山県印南町)はFMラジオさえ届きませんでした。
小学生の頃、僕は洋楽しか聴かなかったのですが、AMラジオでは洋楽がほとんど流れない。
そこで僕は、”こち亀”で得た知識を元に、ラジオを改造しました。
結果、”感電”しました。(100V)
しかし、実験を続けた結果、ついにFM徳島とFM香川が聴けるようになりました。
僕は非常に、”感動”しました。
中学時代
・・・少し時が経ち、僕が中学になった頃、兄がエレキギターを買いました。
ちょうど当時の僕は、ビートルズのジョージハリスンのギターソロを鍵盤で表現できないことを、疑問に思っていました。
(要するにチョーキングというやつです。その言葉すら知りませんでしたが。)
そこで、兄のいない時に、こっそりギターを出し、色々と試してみました。
そして、何週間かたったときに、僕はある発見をしました。
「弦を弾いたあとに弦を押さえたまま捻ると、音程が上がるじゃないか!
なるほど、ジョージはあの音をこうやって出しているんだ!!」
そう、僕はチョーキングを”発見”したのです。
このときの感動は素晴らしいものでした。
今だに僕の原動力の一部になっています。
高校時代
・・・また時が経ち、高校生になった僕は、エレキギターに明け暮れていました。
その頃、僕はCDショップで一枚のCDに出逢います。
パコ・デ・ルシア(フラメンコギターの神様)の「天才」というアルバムでした。
CDを聴いて、その情熱的な演奏と技術に衝撃を受けました。
そこで、僕はエレキギターで耳コピを試みました。
しかし、どうやってもニュアンスが違う。
当然です。
そもそも、エレキギターとフラメンコギターは根本的に違うのです。
フラメンコギターはナイロン弦だし、指(爪)で弾くものです。
その事実は、後にフラメンコギターの教則本を手に入れた時に初めて知ったのですが、当時の僕はともかくエレキギターでパコの演奏を必死にコピーしていました。
僕はフラメンコの正しい技術ではなく、情熱的表現をコピーしようとしていたのです。
過程が重要ではないか
「もし、自分が小さい頃にyoutubeがあれば、悩む事もなく、楽だったろうなぁ」
そう思う事もあります。
最近では、気になったプレイヤーの演奏をyoutubeですぐに目で見る事ができます。
わからない奏法があれば、考えるよりも先に調べれば、すぐに解決することが多いです。
Aという革命的なプレイヤーがいたとします。
10歳年下にBやCというプレイヤーがいて、彼らは伝説的プレイヤーAの演奏動画の真似をして学びました。
この学びの過程は、Aが暗中模索して特別な技術を掴んだことに対し、寄り道がなく非常に効率的です。
はじめからゴールがわかっているわけですから。
Aが20年かけて習得した技術を、BやCはわずか10年たらずで習得するかもしれません。
これは時代がもたらした進化です。
では、彼らはAを超える存在になるのでしょうか。
どうでしょうか。
僕は、
『彼らが、Aの技術を習得・昇華した上で、さらに新しいものを作れる(見えている)かどうか』
という事につきると思います。
技術を習得しただけでは、新しいものをつくる事はできません。
本当の意味で新しいものを作るためには、たっぷりと時間をとって、自分と向き合い、悩むことが不可欠だと思います。
いくら技術が進化しても、こればっかりはショートカットできません。
結局は、自分と向き合った時間が勝負の鍵だと思います。
それさえ見失わなければ、今の時代に生きる僕らは、間違いなく有利です。
しかし、それでもなお、僕が過去に悩んだ時間は無駄ではなかったと思います。
探求する事でしか経験できない貴重なプロセスと、解決した時の感動があるからです。
真似は飽くなき探求の一つの結果なのですね。
探求の結果としての真似は大いに奨励されるべきだと思います。
時代の進化の中の一つの小さな歯車として、自分が役割を果たせるよう、これからも頑張りたいと思います。
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