『演奏する意味とは何か』を考える。

先日、読者の方からこんなお便りを頂きました。
 
Q .
こんにちは。私は今度、クラブの発表会で独奏をすることになりました。
その演奏会は一日かけて行い、私が演奏するのはその長い時間の本当に数分です。
部員の中には楽しみにしてくれている人もいますが、そうじゃない人もいるかもしれません。
聞きたくない人に無理矢理、演奏を聞かせるのは不本意に思います。
でも、「演奏を聞きたくないなら聞かなければいい」という風に考えるのも違う気がします。
 
そもそも演奏をする意義は何なのでしょうか。

 
単に「自分を表現する」というのはあまりに一方的過ぎる気がします。
Kzoさんの考えをお聞かせください。
よろしくお願いいたします。
 
(質問者様の了承を得た上で掲載させていただいています。)
 

何のために演奏するのか

誰のために演奏するのか。
自分のためなのか、人のためなのか。
本当に自分の演奏は、必要とされているのか。
 
このような悩みや疑問を、漠然と抱えている人は多いと思います。
僕自身も、学生の頃から考えていました。
 
しかし、本当の意味で考え出したのは最近かもしれません。
10年後は違う考えになっているかもしれませんが、今の考えを質問者Aさんに回答させていただきました。
以下、回答の抜粋です。
※ここでの意見はあくまで個人的なものです。他の考え方を排除するものではありません。
 

自分自身と向き合った経験・結果が音楽のスパイスになる

A .
演奏をする意義は何か・・・。
これはとても深い問題ですね。
 
『聴きたい人もいるし、聞きたくない人もいるかもしれない。』


この事について本気で僕が考え出したのは、恥ずかしながら最近です。
ニューヨークにいるときです。

地下鉄構内で演奏してると、前のケーキ屋のお兄さんがやってきて僕にこういったんです。
「その曲は、僕の友人の葬式で演奏された曲なんだ。すまないが今は弾かないでもらえないだろうか。」
この出来事は衝撃でした。

音楽が人を喜ばせることはあっても、人を傷つける事はないだろう、と思っていたからです。
自分の想像力の無さを痛感しました。
この時の話をするとよく次の事を言われます。
「想像力があったとしても、そんなことは避けられないじゃないか。考えすぎだよ。」
 
でも、問題はそこ(結果)じゃない。
音楽を演奏する人として、音楽の源である自分の心の問題なのです。

音楽は人の内側が自然に滲み出ます。
音楽を奏でる人は、自分と向き合った分だけ、人を動かすと思っています。
 
自分の演奏は、飽くまで、今まで自己と向き合った結果です。
自己表現欲のみで表面をつくろっただけの音楽は、やはり薄くもろいものになります。
一方、単純に良い音楽をつくるため、内側で熟成させた場合は、技術以上に人の心を打ちます。
 
聞きたくない人もいるかもしれませんが、聴きたい人もきっといます。
聴きたい人がいるのであれば、その人達に自分の内側を見ていただく。
そこに力を集中して注ぐべきだと思います。


ここで、ちょっと陳腐な分析に戻りますが、この状況は「おつきあいのカラオケ」に似ているかもしれませんね。
自分が歌うのはいいが、人の演奏はあまり聞きたくない。
でも人の演奏を聞かないと、自分の歌も聞いてくれない。
だから聞く。
(※全てのカラオケがこれに当てはまるわけではありません。)

でも決定的に違う点があります。

おつきあいのカラオケは、ネガティブに捉えたとすれば、ストレスの発散の場です。
しかし、部内発表会はどうでしょう?
人前でソロで演奏する、という機会を設けることで、未来のコンサートマスターや能力の高い奏者を育てる、という立派な意義があります。
将来のためにも、そんな大切な機会は守らねばなりません。
Aさんが演奏するのには、そういう意義もあると考えてください。
 
聴きたい人が一人でもいるのなら、その人のために心をこめて演奏しましょう。
聴きたいと思ってくれている人に対する礼儀です。
 

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